海吉信号の北方約70メートルの倉安川北岸に接する地積(静観荘の南東の裾野)は、古来から「丸端(まるはな)」の字名があり、鳥瞰すると操山山系の静観台半島の先っちょの文字通り丸っこい端の部分である。

ここには、古くから神仏がらみの石像や建物があり、大師堂(現在の大師堂は昭和30年代に建て替えられたもので、旧堂は現在の1号倉庫がある付近にあって一時期は堂守りの老婆が住んでいた)、北向き地蔵(今も3号倉庫の南にある)、地神様、地蔵堂(その中に鎮座する地蔵尊は、1600年代後半から1700年前後の造営と思われる)、神社御神燈(石燈籠)、更に氏神様の注連縄用の株鳥居一対が配置されている。

平成の時代に至り、まず平成24年には地蔵尊一体がこの地に移設~安置された。

交通安全地蔵

これは、海吉信号のある主要地方道岡山~牛窓線の北東の路傍にあった石仏で、あの付近で昭和39年頃相次いで交通事故死した亀池八造(出村)、湯浅定子(中村)の両霊を弔い、交通安全を祈願して建立された地蔵尊だが、「公道上にその種の物を設置するのはよろしくない」とのその筋からの勧告もあり、関係者協議の結果丸端台地の一角(地神様と古来からの地蔵尊の間)に移設~安置したものである。

その5年後の平成29年、またもやお地蔵さんの丸端台地への引っ越しが行われることになった。

伝承によればそのお地蔵さんは、出村町内を用水と並走して東西に配置された道が岡山~西大寺間の主要山陽道だった頃、旅人が現在の海吉1781番地(最終住人:故湯浅亀三翁)先で行き倒れとなって死亡したことを哀れみ、村人や遺族(?)がその霊安かれと湯浅家の屋敷の南東の隅にお地蔵さんを設置したのだという。

東組地内にあったお地蔵さん

時は移ろい、当の湯浅家は家屋敷を処分することになったが、売買物件たる土地の一角にお地蔵さんがあったのでは買い手も難色を示すことから、まずはお地蔵さんを処分することになったものの産廃や瓦礫同然の扱いもできず、先例に倣って丸端台地へ移転~安置することで湯浅家末裔~出村町内間で円満合意し、平成29年 5月2日に無事移設を完了したものである。

移設~安置された湯浅家の地蔵

この際、将来の維持管理を考慮して屋根等は設けず、地蔵本体と台座のみを移設したものである。

毎年8月23日夕には、出村子ども会によって地蔵盆の祭りが執り行われており、古来からの地蔵尊に加え、これら平成の時代に丸端の地に合流した2体の地蔵尊も併せた地蔵祭りが、地域のよい子たちによってこれからも脈々と継承されて行くことだろう。

(文・写真・作図:小野田)